教会紹介

※ 教会の入り口です
礼拝堂部分は新築ではありませんが、スペースが広くなりました。玄関、フロア、2つのトイレ、キッチン、廊下、集会室は広く、新しくなりました。西川材(質の良い飯能の杉、桧のこと- かつて飯能河原からいかだを組んで、名栗川、荒川を通って江戸に運ばれた)の無垢の杉板が床と腰板、戸等に使われていて、木のやわらかさと美しさが基調です。教会の玄関の屋根には、大きなステンレスの十字架が立ちました。
十字架は、この教会がキリストの愛と救いを証しすることを表しています
戸を開けて入ると、玄関と廊下の壁には教会員の描いた素敵な絵が10枚以上掛けてあります。先日初めて来られた方が「これは素晴らしい」と言ってくださいました。よい絵が見られる教会として知られるようになったらよいと思います。絵は少しずつ取り換え、絵による交流の場になることを願い、鑑賞と共に展示もしてくださると幸いです。
集会室は、現在、聖書会や食事会等に使われていますが、礼拝堂と合わせ、新しく企画される音楽会、講演会等の活動に使われるよう考えております。どうぞご協力、ご参加をお願いいたします。 玄関や部屋の引き戸は上吊りになってとても軽いです。照明は間接照明で、やわらかな感じです。 他に、教会の横に駐車スペース(4~5台分)が出来ました。従来から借りている2台の駐車場と合わせて使えます。 飯能ルーテル教会は伝道開始60年、この地に会堂が建てられて50年になります。新装なった私たちの教会は、心も新たにし、この地域で歩みを続けたいと願っております。今後ともよろしくお 願いいたします。

飯能ルーテル教会が誕生したわけ

今から60数年前の1945年8月15日、日本は敗戦を迎えました。
国土は焦土と化し、多くの人が精神的な支柱を失い、虚脱状態になりました。
数年後の1949年、近くの米軍基地に駐留していた兵士の一人、ギルバート・シービング青年は、たまたま飯能にやって来て昭和薬局で薬を買い求めました。
その店の主、神田邦武氏との親交が生まれ、それが縁となり、
その二階で聖書研究会が始まったことが、飯能ルーテル教会誕生となりました。シービング青年は、アメリカ、ミズリー派ルーテル教会の熱心な教会員でした。敗戦によって精神的支えや力を失っている日本の人々に、クリスチャンとして自分の出来ることをしたいと考え、故国のお母さんに自分の気持を伝え相談しました。息子の思いに応えてお母さんからお金が送られてきて、それを基に教会の建物が購入されました。
1950年(本町一丁目)けれども教会は建物だけでは成り立ちません。聖書を説き明かす宣教師か牧師が必要です。その頃、中国で共産革命が起こり、伝道していた宣教師は国外追放となりました。アメリカに帰るルーテル教会の宣教師たちは、その途中、日本に寄りました。その一人、ポール・クライリング宣教師は大宮に住みましたが、飯能で教会が始まるということで、八高線に乗って飯能に通うことになりました。しかし、クライリング宣教師は日本語が出来ませんでした。日本人に英語を日本語に通訳してくれる人が必要でした。しかし、神さまは、その数年前にクライリング宣教師の通訳をしてくれる人をすでに神奈川の方から飯能に呼んで置かれました。県立飯能高校の教師となった澤田英彦先生です。先生の教え子が、「わたしの学校に英語の出来る先生がいるよ」と教会に知らせたのです。かくして、教会堂と宣教師と通訳者とそして求道者たちが神さまによって用意されて
飯能ルーテル教会が誕生し、教会活動が開始されたのです。
翌年、双柳にあった「飯能実業高校」を、飯能教会も所属する日本ルーテル教団が購入し、「聖望学園」がスタートしました。キリスト教精神を基にしたミッションスクールとして高い理想と志を抱いての出発です。私には先人の信仰と意気軒昂な気概に心打たれるものがあります。初代校長はクライリング宣教師、二代目は澤田英彦先生でした。あれから50年がたちました。教会も学校も神さまの守りの中を歩んで今日を迎えております。